三・一一被曝被害者は語ることができるか

※以下は「被害者の会」会員の松平耕一が、雑誌「情況」掲載用に準備した記事です。「情況」編集部に許可を取り、ここに掲載させていただきます。

【文化時評】「三・一一被曝被害者は語ることができるか」松平耕一

「三・一一の被曝被害者」とは何か、誰であるのか、そんなことを問うてみたい。福島県の地域住民に、そして、福島原発の労働者に、甚大な被害をもたらしてきている福島原発事故だが、その災害の本当の全容は、未だまるで見えていない。福島原発事故による「被災者」といえば、主に、福島県での、政府による避難指示区域の住民のことを指すことが多かろう。そして、福島原発事故による「健康被害者」と言えば、その焦点は、福島原発の作業員や、福島県での小児甲状腺がんの患者となるはずだ。しかし、ここでは「三・一一の被曝被害者」というものの外延を広げたいと思う。福島の近隣圏や関東圏までを含めた東日本の在住のすべての存在は、可能性としての「三・一一被曝被害者」でありうる。そして、東日本在住の多くの病人は、実は、可能性としての「健康被害者」でありうる。しかし、東日本在住の特定の病人が「被曝被害者」であり、かつ「健康被害者」でもありうるということを論証するためには、疫学的・科学的な検討が必要になる。この論証過程を疎かにすると、「放射脳」と罵倒され批判される危険性を冒しうる。
東日本の多くの地域で、原発事故後、放射能汚染が観測された。国際放射線防護委員会(ICRP)の二〇〇七年の勧告では、一年間の被曝限度となる放射線量を、平常時は1mSv未満と定めていたが、これを超えて被曝させられた人々は、東日本において凄絶な単位で存在する。翻って考えてみるに、被曝被害というものを、細かく見ていけば、自然放射線以外の、原発事故による放射能汚染をほんの少しでも受けた人々は、すべて、「三・一一被曝被害者」であると定義できるはずだ。この意味で、生まれてこのかた三八年間東京都民であった私、松平耕一は、間違いなく「三・一一被曝被害者」であると言えよう。
そして、今、松平は一人の、いまどき珍しくもない病気の病人であるが、もしかしたら、可能性としての「福島原発事故による健康被害者」かもしれない。つまり私は、私たち東日本在住の病人は、「三・一一被曝被害者」であることは名乗りえて、一方で「福島原発事故による健康被害者」であると言い得るかどうかには、多少の蛮勇が必要な場合もある。
私は、この文化時評において「三・一一被曝被害者」の立場から、文学的な想像力によって、「原発事故による健康被害者」の立場へと跳躍することで、その健康被害者の、歴史的責任について検討したいと思っている。まずは次のレポートを読んでいただきたい。

○松本麻里に聞く
「事故から五年目にあたって「被曝被害」をどう考えるか――フェミニズムの視点から」

(この章は、二〇一六年五月五日の「福島原発事故による健康被害者の会(以下、被害者の会)」による集会「関東圏の放射能被害vol.2-広がる被害、つながり、避難という希望」における話し手の発言を編集し、松本麻里へのインタビューの形にまとめなおしたものです)
――「被害者の会」は、三・一一以降の反原発運動や国会前での抗議行動をやっているなかで出会った人たちが始めた集まりです。もともとは、東京電力や国の、原発事故の責任追及や、福島の子供達の被曝の被害や、避難者の苦しみに対して、自分たちで支援をしよう、責任追及をしようというアクションをしてきたわけです。ですが、事故から五年たって、その五年目というのは、チェルノブイリ原発事故で、爆発的に、さまざまな健康被害者が増え始めた年でもあったわけですね。それを自覚しながら、実は自分たち自身にも、いろんな健康被害が出てきているんじゃないかということを話し合っていました。大腸癌、心臓の疾患、甲状腺異常、皮膚病やアレルギーの悪化、食道炎の悪化、化学物質過敏症の悪化といったものに苦しめられている仲間が、いっぱいいるじゃないかということに改めて気づきました。そして、福島の健康被害が、あれだけ言えなくなっている、避難も口に出せなくなっている。この状況を変えるには、関東での健康被害、大人の、若者の健康被害も声を出していかなければならない。誰もが放射能被曝で健康被害がでうると、そしてそのことに、国や東電は責任を果たさなければいけないんだということへの、流れを作っていきたいと思っています。
今回は「被害者の会」の松本麻里さんにお話をお聞きしたいと思います。松本さんは、もともと、現代思想の分野でフェミニズムの研究や論文を発表されていました。原発事故後は、まさに被曝の問題について、論文を書いていますね。私たち、健康被害に苦しむ人や、それに関心がある人には、何が必要であるのでしょうか?

松本 もともとフェミニズム、女性に関するさまざまな問題について文章を書いていたりしたんですけれども、三・一一以降、はじめのころは原発事故問題について、ちらっと文章を書いたりしました。しかしそのあと、具合が悪くなってしまった。具合が悪くなったのが、結局なんだったのかと自分にして思うと、やっぱり「被曝」の問題が自分にとってはメインテーマだと思っていたんですけれども、それに対して周りの反応が、あまりに冷たいというか無関心というか、そういうものだったんですね。「被曝」について子供を守ろうとする母親への視線が、即「母性主義」であるというような短絡的な批判が多かった。左派やフェミニズムでもひどかった。その後、健康被害が顕在化している現在から照らすと、結果として誰を、何を利してしまったかというと、「安心派」の言説です。
個人的なことを話しますと、一九八五年に、キエフにちらっと行っていたことがあって、まさにチェルノブイリの前年ですね。そのあと、向こうの日本語を勉強している人たちと、ちらちら連絡をとっていたりしたんですが、だんだん音信不通になっていった。郵便の事情もあったんですが、当時まだ小さかったんですが、あるとき、キエフのまだ若かった人が、白内障になったということを聞いておどろきました。若い人がなるものなのだ、と。いまにして思えば、ですが。そのときに、原発事故が起きてしまった社会、その社会がゆっくり壊れていくということを感じて、記憶に残っていたのかもしれません。
ですから、日本において、三・一一の原発事故が起こったあと、まっさきに頭をよぎったのが、被曝の問題だったんですね。しかし、これはもちろん頭ごなしに批判するわけではないんですが、もちろん私も再稼働反対にちがいはないのですが、特に首都圏だと「再稼働反対」という声がメインだった。それをテーマにいろんなデモや集会がもたれた。私はその中で、何かが置き去りにされているし、言わなければいけないことを、蓋をしながら運動とか政治活動とかをしていて、本当に向き合わなければいけない何かを騙し騙ししながら、やっているのじゃないかと思っていた。そういうことは、はっきりと言葉にはできないし、言ったところで「大丈夫」とか、みんな「ポジティブに考えたい」というのは、否定できないと思うんですよね。「気をつけているから大丈夫」という風に思いたいというのは否定できないというのはある。
でも心の底にある不安を押し殺していることが原因で、自分の態度がとげとげしくなって、周りに不理解があったりとか、自分で勝手に壁を作ったりとか、そういうことがこの五年間でした。
そういった中でも避難しているお母さんと交流したり、自主避難して一生懸命言葉を発している方、自律した動きを作っているかたは日本全国にいると思うんです。そうしたディアスポラの経験から発している人たちとはつながってる感覚がある。逆に近くにいる人とは話ができないけれども、遠くにいる人とは話ができるといったような、不思議な、原発事故がもたらした、距離の組み換えみたいなものの中にいたなと思うんです。目には見えないし、貨幣や物理的に還元できないけれど、関係性の崩壊、ある意味で、これも原発事故がもたらした被害であり、状況だと思っています。
そうこうしているうちに、実は今年の一月に、私の同居人が四八歳で、突然、難しい癌ということが分ったんですね。全然兆候がなかったし、もともと発見が難しい癌ということもあって、今治療中なんですけれども、ステージ四というかなり重い段階で見つかったんですね。こういうことって、なってみないと分からないのですけれども、一般的に、自分の頭の中で「原発事故が起こりました。それで、甲状腺がんが増える」というのは、当初から知っていたことではあるのですけれども「癌患者が統計上増える」という知識があることとは、別の問題といま格闘しています。自分が看護・介護する身になってみて「一人の人間が癌になるということは、こういうことなのだな」と思って、今、学びの最中という感じなんです。確かに「統計的」に健康被害が増えるということは否定できないと同時に、また統計的に処理されることにやっぱり抵抗感がある。このあたりの感覚はまだうまくいいあてられていません。
私たちの身体は個別的ですし、病気や症状は個別的ですし、癌といったところで、お子さんが甲状腺がんになるというのと、四八歳の人がなるのと、あるいは高齢の方がなるのと、女性がなるのと、男性がなるのと、治療法と同時に、抱えて、克服しなくてはならない問題も、大変個別的です。そうしたなかで「原発事故で癌が増えますよ」「病気が増えますよ」と、それは確かなんだけれども、もう少し別の言葉というか、別の切り口みたいなもの、病を抱えたものどうしがつながれる言葉、病を抱えた人、あるいは看護する人、それを支える人が発言しやすい環境が必要かなということをいま考えています。
私自身は、相方の癌について言うと、本人は「これは被曝の影響だ」と思っているわけではないのです。つまり被曝が唯一の影響だ、と断定しているわけではありませんし、そのための材料もありません。ただ、たくさんある、いくつかある原因の一つだろうというように、私も、相方も「否定」はしていません。そうした立場です。
また二〇一六年の一月に告知を受けて、そのあとてんやわんやであちこち走り回っているときに、福島で「311甲状腺がんの家族の会」が立ち上がりました。その会見を見ていると、若いお子さんたちが癌になるのと、四〇代の癌と、ケースは違うんだけれども「こういうことが必要なんだな」ということを、涙が出るような思いで見ました。恐らくお子さんの甲状腺がんというものは、これまですごくケースが少ないですよね。希少ケース。
今病院などでも、患者さんの自助組織や、セルフヘルプグループがあると思います。それはとてもいいことで、一方、希少癌、希少発症例はこれまで母数が少ないからつながることも難しくなる。そんな折に、必要な相互扶助的なもの、まず繋がることでたちあがって、という人々の営みに感銘をうけました。
と同時に、この「被害者の会」のブログの記事で「デモではなくて、自分の身体や病院が闘争の場になるんだ」という文章を目にして、それにも感銘を受けました。原発事故が、「起きてしまった」あとの社会に不可欠な認識だと思えました。
私が事故直後に言いたかったのはそういうことでした。ここまで、放射性物質が首都圏に降り注いでいて、それは政治的な課題であるのと同時に、個人が抱え込まなければいけない問題です。また自主避難や移住の問題も「個人化」されてしまっている。個人として格闘しなくてはいけない問題であると同時に、社会的・政治的な糸口というものを、どこかに持たなければいけない。また、健康被害は性別を問わず、といえども、多く「介護」「看護」や「ケア」に関わる女性の問題でもある。
私は原発事故の直後、母親たちの子供のケアを、資本主義の中での「再生産労働」「ケア労働」の視点から論じました。巨大科学事故の「負債」を、誰が担っているのかという問題です。それも貨幣に換算できない領域で。「単なる母性主義だ」とか「家族主義を強める」というフェミニズムの論者もいましたが、検討違いです。なによりその人たちは、初動の自分たちの言動が都合が悪かったのか、今やすっかり何も語っていません。福島の甲状腺がんの多発や、自主避難者の母子家庭に支援の手をさしのべようとはしていません。この初動で、全体状況を見誤って、事故の当事者にむけられた批判は、どこかでいったん検証しなければならないと思っています。
今思うと、被曝による健康被害の情報は、適切なものも、眉唾なものも、事故後にバーっと広がったと思います。正直、玉石混交でした。情報のアナーキー状態。
それでも人々は、そのなかから賢明に取捨選択し、ある種の「リテラシー」「状況知」が形成されたり、獲得されていたと思うんですね。ところが次第に、それが黙らせられていく「瞬間」「出来事」というものが、はっきりあったと思います。目に見える制度的「検閲」以上に。それはメディアが仕組んだとか、行政がとか、環境省が仕組んだ、と明確に断定できるわけではなく、意図せざる結果なんだけれども、「健康被害」を話すことをためらわさせる状態が作られていった。
たとえば、一つには、皆さんご存知かと思いますが「『美味しんぼ』の鼻血問題」があったりしますよね。あれも何が問題かというと、ああいった表現を問題にされる方もいらっしゃるかもしれないけれども、あの表現に対して、町から意見が出て、そのあと福島県から意見が出て、最後は環境省が「そういったことはありません」といったような否定を出した。
私はフェミニズムになじんできたので女性の身体に関することも、かつては支配的言説によって、語ることが封じ込められてきたということを知っています。たとえば月経の話でいうとそれは「不浄なものだ」とか、「個人的な問題だ」と時代によって言われたりしてきた。それでも、言いづらいことを、女性が声をあげたり、あるいは、社会的に認めさせるための様々な動きがあった。「生理休暇」を認めさせるとか。個人的にさまざまな症状を抱えるとか。
三・一一後の健康不安や、生活に関する懸念は、どうも政治的空間のなかですら黙らされっぱなしで、話すことすらタブー化されてしまう。それは、検閲であるとか、制度的にかっちりと決められているわけではないのですけれども「人の心がもたらす検閲」というか「自発的検閲」というか、「そういう話をするのはやっかいだから」とか「また被曝は怖いとか言ってんの?」と。ともすると、その人の資質にまで還元されてしまう。
でも今も問題にして、語っていかなくてはならないというのは、なにより状況が閉塞化しているからなんですよね。「まだそんな話してんの?」「まだ心配してんの?」という人には、即、切り返したいですね、逆に。「被曝対策に関する政策や、改善・進展したものってありますか?」と。避難に対する補償の話でも、制度的にでも。ないでしょう?
ポール・ヴィリリオはチェルノブイリ事故を、「時間の事故」と呼びました。このゆっくり崩壊していく社会を凝視し、観察していかなければならないのだと思います。
また、一方、ロシア研究者の尾松亮さんが研究・報告されていますが、チェルノブイリでの住民と原発収束作業員の運動があり、日本社会でも病者の運動、公害の健康被害を受けた方の運動はたくさん知られていますね。
戦後七〇年経って、今も原発訴訟はたくさん起こっています。そういうところを参照するにつけ、まず「被害を受けたかな」という人たちが、話しやすい環境、つながっていく言説空間を時間をかけて作っていかなければならないと思います。チェルノブイリ後の社会支援については、「社会体制が異なるから日本ではできない」と即反発をよびますが「核災害史上」の対応としておおいに参照されるべきだと思っています。
被曝の問題は、立証不可能だというところが、原子力を推進する側には強みである。原発事故との対応関係が一対一でないのはやっかいなことです。それでも心のどこかにとめておくと同時に、何らかの記録というものを、つけていく必要があるんじゃないかと思っている。
本来は、「被害を受けた側」が立証しなくてはならないということ自体、「理不尽」なことです。それでも今からでも遅くないですけれども、三・一一の前後に何をしていたかとか、どこにいたかとか、関東であれば自宅の周りの土壌だとか、記録をつけていく。それから私は関東で、ガラスバッジを一週間つけるプロジェクトにも参加したことがあります(これは身体の前面のみ計測するのでトータルな被曝量が把握できないという問題もありますが)。そういうものを今からでもやってみるとか。その積み重ねが、将来的には何らかの強みになるのではないかと思っています。
また繰り返しになりますが、癌や、難病の患者さんの取り組みの中で積み重ねられてきたことだと思うんですけれども、経験の共有化だとか、相互扶助だとか、情報の交換だとか、すごく必要だと思います。「被曝が怖い」「被曝は大変だ」というイメージの中に、病気のイメージの具体性のなさというのがあると思います。
事故から五年経って、今は、議論している時期をとっくに過ぎている。どれが正しくて、どれが正しくないかということではなく、具体的に自分の身を守る、自分が病気になったときにどう対処するかということを、少しでも、孤立するのではなく、共有化しなければいけない。具体的な自助組織的なもの、自助組織でありながら、助け合いであって、かつ政治的でもあるというか、そこで完結せずに、社会に開かれているような形をとっていくようなことが必要なのでしょう。

――「『美味しんぼ』問題」や他のことでも、反原発の言説を潰すためのものとして、理学者、物理学者、科学啓蒙家などの、自然科学者の、見えないところでのネットワークのようなものが存在していて、言説を抑圧しているように感じるのですが、どうでしょうか?

松本 「「被曝」潰し」の言説がどこからわいてくるのかということですよね。それは、経済力があるのか、利害関係があるのか、それとも自主的なものなのかということですよね。それについては、不明点が多々あります。調べに調べて、特定すれば、特定できるところはあるかなと思っています。気がかりなのは、三番目の自発的検閲、自発的安全神話への服従というべきものが、力を持ってしまっているというのが、すごく怖いと思います。
「こいつらが組織的にやっているんだ」というのだったら、一個つかまえれば、これがお金の出元で、こうなっているんですよというのは論証可能です。そういうことをやっていらっしゃる方は、原子力広告の部門で、本間龍さんがいらっしゃいますね。また少し別の領域ですが、福島第一原発の津波の「想定外」という言い方が、ばーっと広まったわけですが、この検証に関しては添田孝史さんが原発立地までさかのぼって「想定外」ではなかったことを立証しています。いずれも大変な労力を費やしておられます。また日野行介さんの著作も不可欠ですね。
そうした優れたルポルタージュなども手掛かりに、三・一一のあとの被曝過小評価の言説検証は行われるべきと思っています。もうひとつのやっかいなほう、身の周りの日常生活で、人間関係を分断していくものは自発的な検閲や自発的な服従です。積極的に支配者の言説に加担してしまうのは何でなんだろうかというのは常に留意したいですね。顕在化する被害が空間的、時間的にも広範囲、多岐にわたっていることから「つながること」「連帯すること」がむずかしいというのが、原子力事故被害の特徴なのだと思います。とりわけ新自由主義とネオリベラリズムを経由して自己責任論、自助努力論がすっかり浸透してしまった社会ですから。
またこの事故は、ソーシャルネットワークが発達した中で起こった、初めての事故だったわけです。欧州原子力共同体、ユートラムでは「ソーシャルネットワークが原子力災害にどう機能したか」ということがすでに研究テーマ、分析対象になっています。
私も事故当初最初の二年三年くらいで、積極的に安全神話を信じていく知人、友人に対して「何であいつは寝返りをうつようなことを言うんだ」とか思っていたのですが、あまり思っても消耗するだけなので、今は世論形成に動員されていく対象として眺めてしまうことがあります。あきらかに被害の過小評価の線上にある「「被曝」潰し」の言説に、人々がなぜ主体的に服従してしまうのかということ。もちろんケースは違いますが、過去に、水俣病や原爆の被害でも、いろいろとあったりしたと思います。そういったところと照らし合わせながら、見ていく必要もあると考えています。
事故から六年目を迎えて、これからも顕在化する健康被害も含めて、有形無形の被害、人々のつながりを分断していく力はますます強大になっていくでしょう。二〇一七年の三月には自主避難者への住宅提供がうちきられようとしてる。最近政府が言い出したのは二〇二一年には、なんと帰還困難区域も解除する方針です。オリンピックも含めて、日本政府は全力で、原発事故の収束演出にやっきです。これは個人の記憶という以上に、風化させてはいけない、と言いながら、事故の責任もあいまいに、事故後の対応の責任もあいまいにするという「構造的風化」の社会的演出がますます強まっています。
そんな中で、自分の言葉や思考の組み換えも含めて、具体的な相互扶助の空間作りや、関係性を作り直していくことが、急務な時期かなと思っています。

○証言 松平耕一の大腸がん――被曝被害と癌患者

松本は、チェルノブイリ事故の直前にキエフを訪れていたこともあり、極めて早い段階で、関東圏での被曝被害の問題に注目していた。福島原発事故の被曝被害というものに無関心な周囲に対する、敏感な戸惑いを率直に語っていると思う。
松本の意見でも、「記録をつける」ことが必要かもしれないと語られているが、「福島原発事故による健康被害者の会」では「被害者としての証言」を残すことが大事ではないかという議論が、立ち上げの時点からあった。
松平と「被害者の会」のメンバーは、証言集めのために、仮に次のような質問事項を用意してみた。

「一:お名前、年齢、性別
二:三・一一まで、住まいと仕事場はどこでしたか(都道府県、市区町村までお願いします)。
三:三・一一以降、住まいと仕事場が変わった方は、変更先(同上)とその時期を教えて下さい。
四:今はどういう病状・状態ですか?
五:三・一一前に、その病気は発症していましたか。
発症していた場合、三・一一前と以後でどのようにちがっていましたか。
六:生活習慣はどうでしたか?
七:健康診断は受けていましたか?
八:原発事故による放射能との関連はあると思いますか?
九:病気になって一番辛いことは何ですか?
十:今の希望は何ですか?

「福島原発事故による健康被害者の会」では、自分の健康被害について、皆と共有化したいという方を探しております。」

これに対し、松平自身が、次のような回答例を提示した。私が、被曝被害者としての状況を語りつつ、また一介の病人としての病歴を簡単に自己紹介したものである。
以下は、「被害者の会」会員の一人であるところの、松平による証言(二〇一六年五月八日擱筆)だ。

※※※

――今はどういう病状ですか?

がん患者の松平耕一です。今三八歳です。去年の一一月(二〇一五年)に大腸がんだとわかりました。癌だと分かってからもう少しで半年になります(二〇一六年五月)。見つかった時点で大腸がんのステージ四で、肝臓に転移していました。五年生存率は一八%だということです。癌が広がっている範囲が大きくて、手術ができない状態でした。抗ガン剤で治療していますが、見つかったときから、変化はあまりないようです。抗がん剤は延命に効果があるそうですが、そのうち効かなくなるみたいです。今は、副作用のせいで、いつも具合いが悪く、一日中寝ていることが多いです。腹痛や便秘のせいで入退院を繰り返しています。大腸が機能していないので、人工肛門を造設していて、不便な思いをしています。便の問題だけにですね。

――病気が見つかるまでの体調はどうでしたか?

一一月に、ものすごい腹痛に襲われて、病院に行って癌だとわかりました。発見されるまで、一年かそれ以上の間、下痢があったりとか、具合いの悪いときが多かったです。一日に六回や七回下痢があったりしました。精神性のものかと思っていました。毎朝の出勤に不安がありました。十月、十一月には、トイレの前で立てなくなり、ずっと転がったままでいて、救急車を呼ぼうかというくらいの状態になりました。

――生活習慣はどうでしたか?

生活習慣上の問題としては、吉野家での食事が顕著に多かったです。一日二食吉野家の日もありました。サイゼリヤもよく行ってました。二〇から三七歳までは、外食がとても多かったです。

――住んでいるところと職場はどちらですか?

生まれてからずっと住んでいるところは、おおむね、東京都の府中市です。原発事故の起こった当時は、仕事で、毎日中央区銀座で街頭に立っていました。二〇一一年の三月から二〇一二年の二月までそこにいました。二〇一二年の四から六月は千代田区溜池山王、二〇一二年一一月から二〇一五年一〇月までは、江東区の有明に職場がありました。この辺りの水は飲みたくないなと思いつつ、水道水を飲んでいました。お酒は割とよく飲む方でした。癌が重くなったとき、飲み会の翌日、具合いが悪くて丸一日起き上がれないことがありました。

――健康診断は受けていましたか?

一年に一度の健康診断は受けていました。徐脈があったこと以外はまったく異常はなかったです。二〇一五年では、夏に会社の健康診断をしています。また、十月には、治験、治療薬検査のバイトで、入院しています。その病院の検査では異常は見つかっていませんでした。このときはさすがに癌は、ガッツリあったかと思いますが。また、自転車での転倒とか、胸をぶつけるとか、物理的な原因がきっかけとなり、右胸の下辺りが痛むという症状が昨年の五月と九月にありました。それぞれ二五日間くらいと一四日間くらい、具合いが悪かったです。このときは整形外科にかかったのですが、異常は見つかりませんでした。その時点で精密検査を受けていたら、癌が発見されていたのではと思います。癌による炎症が内臓で起こっていたのだろうと考えています。

――原発事故による放射能との関連はあると思いますか?

私の場合、牛肉や添加物の摂りすぎ、野菜不足の生活、日々の精神的ストレスであるとかは、癌の原因になったと思います。しかし、私の歳で癌になるのは、珍しいと思いますし、原発事故との関連はありうることだと思っています。吉野家やサイゼリヤは食べて応援の企業ですし、事故による放射能が、癌のきっかけを増やしたというのはありうることでしょう。三・一一の起こってすぐの時点で、自分は避難しなければ病気になると思っていましたが、自分はあえて避難しませんでした。被曝の影響のありうる東京で生活していて、命に関わる大病にかかるのは、納得のいくことだと思っています。

――病気になって一番辛いことは何ですか?

異性装、女装が趣味でしたが、ストーマによる制約や、体調の悪さから思うように動けず、できなくなったことが悲しいです。髪の毛が抜けて薄くなりました。それから、結婚や育児に興味がありましたが、ちょっと無理だろうなということも悲しいです。最近は、アニメの『暗殺教室』を見て、恩師を暗殺しなければいけない生徒と、暗殺対象である先生の、宿命の関係性に思いを馳せて、グスグスと泣いたりしています。

――今の希望は何ですか?

東電と日本を破壊することです。今、水俣病の公式確認六〇周年ということが話題になっていて、水俣病の運動は本当に長い戦いだったんだなと思います。しかし、放射性廃棄物が安全になるまでかかる時間が十万年以上ということであるようなら、原発による健康被害者には、「十万年戦争」が必要なのかもしれません。私たちは、放射線という見えない銃により、どこからか撃たれていて、当たったものがバタリバタリと死んで行く。これに抵抗しなければいけない。過去の反原発運動や、チェルノブイリ原発事故の被害者たちの志を受け継ぎつつ、日本や「世界原子力帝国」といったものとの「十万年戦争」をする。この戦争に私は参加し、たとえ敗北したとしても、未来の人に闘争の意志を託すということが、私にとっての希望です。

※※※

以上は松平による証言だ。しかし、私は「福島原発事故による」「真の」「健康被害者」であるのかどうなのか、検討していくべき課題がある。そもそも、日本において歴史的にがん患者の数は原発事故以前から増えている。
二〇一六年七月に、国立がん研究センターは、二〇一六年の間に、新たにがんと診断されるがんの数と、がんで亡くなる人の数の予測を発表した。その数は、罹患数は一〇一万二百人で、死亡数は三七万四千人であるという。ものすごく多くの日本人ががんにかかり、そして亡くなっている。癌の罹患の理由も一様ではないだろう。
そして、ここではエビデンスを示しての論証過程は省くが、ごく少なく見積もられたICRPによる計算のモデルを利用したとしても、福島原発事故による放射能汚染の人的被害で、年に数千人の過剰な癌死が東京圏でも増えると言えるそうだ。このことは確認しておきたい。
一つ指摘したいのは、一〇一万人のがん患者が見つかるとか、放射能の被曝により東京圏で数千人の癌死が増えるというのは、ただの統計による数字に過ぎないということだ。一人一人のがん患者は、それぞれ、別の状況におかれて、病床にて苦痛を受けている。
ところで、私はテレビが嫌いでまったく見ないので知らなかったが、本稿執筆中、鳥越俊太郎という人が東京都知事選挙に出ていると聞いた。その人も、私と同じく大腸がんで、肝臓に転移していて、さらには私も転移していない、肺にも癌があったが、今では元気に都知事選に取り組んでいるから、松平も頑張ってね、という旨の励ましを人様からいただいた。気にかけてもらえて私を前向きにさせるために、声をかけてくれているのは分かる。しかし、誰それの重い大腸癌が治ったからといって、私も同じように治る保証があるわけではない。
癌患者をしばらくやっていると、「癌ハラスメント」みたいなものがあるのかなと感じることがある。「同じ大腸癌で」、「同じステージ四だけど生きている人がいる」と言っても、それぞれの人を待ち受けている運命は、一様のものではありえない。
蛇足に蛇足を重ねるようだが、鳥越は女子大生とのスキャンダルが噂されていて、その件について、私は鳥越はシロだと思う。それもともかく、私は久しぶりにセックスをしたら、脱腸が起こってしまった。腹部に少しでも圧力がかかろうものなら、人工肛門から腸がはみ出してきてしまうのだ。今は、脱肛が癖になり、身を起こしていたり、心理的なストレスがかかったり、食事をした後には、切腹した侍のごとく、ダラリと内臓が吹き出てしまう。ほうっておくとどんどん出てきてしまうので、手で押し込んだり押さえておく必要がある。体内で腸がくっつかずにブランブランの状態になっているためらしい。医者には、抗がん剤がよく効いた結果としての副作用の可能性か、癌が悪くなっている可能性かのどちらかだと聞いた。
こんな状態では、女性と二人で部屋で会うのも怖い。もう死ぬまでこんななのかなと、目の前が真っ暗になり、思考が停止した。何日か前に、親に「孫の顔が見たい」といった趣旨のことを言われたことを、ウンザリと思い返した。脱腸の症状は、横になっていれば治まるのだが、このままでは、ほとんど起き上がることのできない、寝たきりの生活になってしまうのではと危ぶんでいる。同じ大腸癌患者といっても、その闘病生活は人により様々である。
原発を癌にたとえる人がいた。悪性腫瘍は人間の仲間のふりをして、免疫細胞の攻撃を逃れ、健康な器官へと仲間を送り込み、そこを汚染し、身体中の至る所に転移し、次々と腫瘍を増やしていく。そして、身体の主要な器官を一つ一つ破損させていき、やがて死を招く。地球にとって原発とは癌だ。原発推進派は、聞こえのいい言葉で原発の必要性を説き、「明るい未来のエネルギー」を騙り、日本社会に深く根を張った。世界における原発勢力という病巣は、深刻だ。
私は、私自身が、「原発事故による健康被害者」かどうかは分からないが、少なくとも「三・一一被曝被害者」の一人として、次のことだけは語りたい。それは、悲惨な癌死を一人でも増やす原発を「決して許すな」ということだ。
癌は、それぞれの人の、一つ一つの内臓を不可逆的に損傷させていき、痛みおおき死によって、患者を癌死させうる。亡くなるがん患者には、それぞれの人に、それぞれの人の文学的生がある。先行きなき、終わった科学技術である原発政策で、そのような癌死患者を、一人だって増やしてはいけないはずだ。本当に勘弁して欲しい。

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